#振り返り

これまでの会社生活などの振り返りや時事

バブル

集団には、さまざまな病的特性が共存する。一つは、「バブル」。これには、二つの意味があると理解している。一つは、文字どおり「泡」ともいえるもので、膨張して破裂したり、野心、夢や虚構であったりするもの。もう一つは、新型コロナ出現以降、その組織的対策の一つとして実施されているような「外界との遮断」。

ウクライナ危機でも、この「バブル」がいくつか見て取れる。

ロシアの膨張主義は今に始まったことではないし、歴史的にも、多くの国で散々繰り返されている。ロシアを非難している国々の多くも例外ではない。今頃になってロシアを糾弾しているEU主要国は、これまで加盟国を拡大してきた。ウクライナには、梯子を外された思いがあろう。

ヨーロッパの主要国に行ってみればわかると思うが、域内の途上国出身者に安い賃金で3K的仕事を任せて、虚ろともいえる繁栄を謳歌している。また、脱炭素をきれいごとのように声高に叫んで、ロシア依存症となり、この有り様だ。集団は大きくなろうとし、その過程で外界と隔絶して「独善」や「偏見」、「虚構」などがはびこる。EUも、もう少し謙虚で誠実であるべきだ。ウクライナ危機対応がバブルであってはならない。

マスコミや有識者には、なぜ、ロシアが戦争犯罪を認めないのか、残虐行為をやめないのかと憤りの声を上げているが、集団は自身に都合の悪いことには目を背けるもの。西側リーダーのアメリカは、湾岸戦争に向けた世論形成のための捏造をしたと聞くし、日本の真珠湾攻撃でも、いろいろなことがいわれている。日本も、太平洋戦争に負けるまで、他者に責任を転嫁したり、国民の言行を統制したり、フェイクニュースなども流したと聞く。戦争にはつきものだろう。嘆く暇があったら、実効性のある方策を提言したり、実行したらどうか。

原子力発電の世界も「原子力村」と揶揄される「バブル」が、あちこちで見られた。たとえば、「一致団結総合力」のキャンペーンを張り、そこのけそこのけで異分子や異論などを排除してきた。気が利くだけの才子やゴマすりが跋扈し、俗人的組織に陥り、親分を作り、その顔色ばかり気にしていく。目的と手段がひっくり返ったりする。価値や目標などの行き過ぎた共有は、集団の価値創生や持続可能性を阻害する。なぜ、この教訓がないがしろにされ、再発するのだろうか。これこそが、まさに「バブル」ともいえる。ウクライナ危機は、他山の石とすべきだ。

コンプライアンス」は、集団にとって、今や伝家の宝刀のような側面があるが、行き過ぎた側面もある。正義と悪との一方的対立だけに目を奪われてはいけない。いつか、この話もしたいと思っている。正義やコンプライアンスも「バブル」になってはいけない。実体があり、有効性や客観性、透明性が確保されるべきだ。

CSRも、いつのまにかSDGsに衣替えしているようだが、ウクライナ危機は、カーボンニュートラルのバブル性を示唆している。石油やガスや、あれやこれや値上がりしたと大騒ぎするだけ。だいたい、ウクライナ危機がなくても、「カーボンニュートラル」は、資源価格の高騰を招く。覚悟があるのかといいたい。「バブル」にならなければいいがと心配だ。