#振り返り

これまでの会社生活などの振り返りや時事

モニタリング検査

やっと、無症状者を対象とするPCR検査をやるらしい。このような科学的な疫学調査の必要性は、1年前から、このブログでも明らかにしている。
どうせなら、無作為なモニタリングにとどまらないで、例えば、家庭、学校、病院、職場、職種など、カテゴリーや集団ごとの検査をやらないのだろうか。
症状がない感染者がいる限り、濃厚接触者に片寄った検査だけでは、クラスター潰しも上手くはいかない。
その濃厚接触者の検査も、傍目にはよく分からない基準で、裾切りが行われているらしい。
例えば、勤務者が感染しても、職場の幅広い範囲での検査は行われていないようだ。
折角税金を使って検査するのだから、科学的評価につながる方法を模索してほしい。
相変わらず、食事前後のマスク着用は、徹底されていない。テーブルにアクリル板や除菌液をおいている飲食店は多くない。空いているのに、わざわざ側に座る人がいる。
医師会の長は、「外に出るな、感染するな」と言うだけで、病院の連携を含む感染症治療態勢の強化など、自らに責任の多くがあることには、全く触れようとしない。欧米より格段に感染者が少ないのに、直ぐに受け入れに支障が出るのは、不作為の罪といいたい。
その指標の病床占有率にしても、その具体的定義があいまいで硬直化しているから、さじ加減で変わる。
データ処理も、アナログがまかり通ってIT化が進まず、手間がかかり、間違いも多くなる。。応援態勢も融通が効かないから、超過勤務も多くなる。
このような非常時には、組織の脆弱性が露になる。あらゆる面での不断の検証と具体的な改善対策が必要だ。
いつまでも、非常事態宣言だけに頼らないで、具体的な対策を明らかにしてもらいたい。

給料上げろ!!

日本は、いつの間にか、先進国からは落ちこぼれている。例えば、サラリーマンの給与水準も自慢できるものではない。
100パーセント子会社に出向、転籍の後、年金生活に入ったが、その会社の給与水準は、親会社よりも相当低い。子会社を守る法律は、実質的にはない。
会社法」は、子会社を守ってくれない。独占禁止法なども子会社には、適用されない。だから、優越的地位の乱用禁止なども適用されはしない。
訳の分からない指示や圧力もある。
日本の給与水準が、国際的に低下していった要因は、いろいろあるだろうが、非正規雇用の増加や労働者派遣法などに加えて、子会社の存在もあるだろう。
業務を階層化、多層化すれば、間接業務が増え、コミュニケーションは難しくなり、技術の空洞化も進む。
日本が復活するには、コスト低減ではなく、価値の向上にあるはず。
素晴らしい価値を提供する人材や組織には、相応の報酬を提供する必要がある。
兼業禁止などを就業規則等に今もかかげている組織は笑止。
会社に入って間もなく、組合のオルグかなにかの時、何故、兼業出来ないのか質問したが、組合は、全く反応しなかった。
欧米に行けば実感するはずだが、衣食住あらゆるサービスが、日本は安い。
中国の都市部を含め、アジアの少なくないところと比べると、安心して安いものが手に入る。インバウンドが増えるはずだ。
暇が出来て思うことがある。買いたいものが、店に少ない。
夏は暑く、冬は寒い日本。老人の多くは、胴長短足。大きな字しか見えない。入れたものが落ちにくい構造のポケットは多いほうが安心。家で洗濯でき、乾きやすく。ごわごわしない。
ボタンよりもホックが便利。
服を例にしても、たくさんあるが、多様なサービスが出来るはずなのに、まだまだ、数年の遅れがある。
イノベーションで賃金を上げよ!!

鎮圧宣言

栃木の大規模な山林火災は、8日経って鎮圧できそうだと報道されている。事実であれば、一安心。
原因究明や対策徹底が望まれるが、報道で気になったことの一つに、市長が、「鎮圧宣言」云々を表明していることだ。
鎮圧や鎮火の表明は、現地消防指揮者が行うものであって、自治体の長や対象物件の所有者などではない。関係規則等で明記されているはず。
このような大事なプロセスについて、いい加減なコミュニケーションをしてしまう日本は合理性を大事にする国家なのだろうかと疑問に思う。ムードや気配、空気がいつの間にか、支配してしまう。
誤解のない報道が望まれる例として気になってしまった。
合理性の固まりだけで成立する原子力発電が、にっちもさっちもいかなくなっている理由もうなずける。

マスクの付け方

よくマスコミに登場するような有名人のマスクが、裏表逆になっているのを、しばしば見る。
おもて側のヒダが下向きになるのが正しい付け方と言われている。
有名人を支える態勢の危うさが窺われる。
例えば、公職選挙法違反は、相変わらずなくならない。たしかに、現状に則さない奇妙な規制もたくさんあるようだ。おかしいなら、変えればいいのに、変える前に失敗する。
政治家を取り巻くガバナンスは、いったいどうなっているのだろう。
CSRやESG、SDGsも、ガバナンスは中核の課題だ。組織がガバナンスを怠ると劣化、消滅が速まるだろう。
マスクの付け方を間違うと、個人の健康リスクだけでなく、組織の存続リスクも大きくするかも知れない。

属人化した組織の顛末

オリンピック組織委員会のトップが変わるようだ。散々、非難する一方で、余人には変えられないと、持ち上げたり、依存したりする。
このような、ガバナンスが全く効いていない組織に、どのような権限やら、予算が張り付いているのか、組織体制や執行ルールなども、あまり報道されない。
議論の余地のない稚拙な発言の表面だけを非難するだけでは、何も変わらないだろう。
このようなことがあると、結局は、属人的な組織と見なして、トップの独走や独断、性癖等のせいにするだけで、組織全体の脆弱性を分析せずに、うやむやで終わる。
排水バルブを閉め忘れた職員に、損害額の半分を賠償させた自治体があるらしい。
その業務は、どのようなマニュアルや委託仕様書になっているのだろうか。
そのバルブの操作責任や開閉作業の手順は、組織として明確化していて、職員は、それらに違反していたのだろか。
何か問題が起きても、特定の個人を犯人にしてお茶を濁すことが多い。
失敗した個人を非難、排除するだけで、失敗から学ぼうとしない組織は、いずれ淘汰される。
オリンピック組織委員会は、トップが少し、場を賑わす発言をし過ぎて、脱線したようだが、組織的な背景が、きっとあるはず。現に委員の8割は男だ。他の委員は、何をしているのかといいたい。
日本は、組織的、体系的、戦略的、大局的な作戦が、下手だ。何かあっても、原因や責任があいまい。失敗から、学べない。
今回も、体調が万全ではない高齢者に、散々、嫌な調整やら、裏仕事をさせたあげく、失言をとらえて引きずり下ろす。背後で、したたかに動いている勢力があるはず。
間違いなく、東京オリンピックの開催は遠退いた。まさに、オーンゴール。

東京オリンピック開催せよ

東京オリンピック開催が怪しくなって来た。コロナと戦って1年が過ぎようとしているのに、何を学び、次に生かそうとしているのだろうか。暗然とする。
元々、オリンピックに個人的な関心や興味は特段なかったし、今もない。
これまで散々、資金や労力を使って来て、それらをドブにすてる愚策は、原子力などでも経験している。この国は、このような覚悟のない空気感や合理性のない主張に、国の命運を託すことが多い。
都合がいいところでは、アスリートを持ち上げ、都合が悪くなれば、奈落の底に突き落とす。
いたずらに不安や不信を煽り、人気や視聴率、支持率などエゴイスティックなものに捕らわれてしまう。
リスクにたいする賢い向かい方を何故共有しようとしないのか。例えば、ワクチンの危険性を挙げ、その普及に尻込みする論調が根強い。
ワクチンを射たないで感染して、自身を死傷させるリスクの方が、ワクチンの副作用よりも小さいと信じているのだろうか。あるいは、人に感染させることに無頓着なのだろか。
まるで、放射線リスクの捉え方と同じ。この世に絶対安全は存在しないのに、少しでも心配になると、合理的思考ができなくなる。
コロナ下でオリンピックをどう開催したらいいかを、何故共有しないのだろうか。
いろいろ大きな競技会が、開催されている。白旗ばかりを上げてはいない。既に実績を積み上げているのに、それらの教訓を共有しようとせずに、まるで、オリンピック開催を狂気の沙汰のように非難する。
どうしたら、国際社会の理解を上手く得ながら、開催に繋げようとしないのだろうか。
推進側でも、とんでもない言動を繰り返すリーダーがいる。それこそ、任命責任を問うべきだ。
このままでは、ウルトラシー(C)(今では死語か。Cではなく、今はウルトラアイ(I))でもない限り、開催は無理だ。太平洋戦争以降、日本は、敗戦を重ねるだけだ。

権力による差別的言動

個人の差別的言動は、ある程度は仕方がないと思う。ただ、公的立場や組織人であれば、厳しく評価されるべきだ。
コロナでも相変わらず、おかしな発言が届く。
特定の地域を名指しして、来るなという。
生活圏のなかで、往き来することもあるだろうに。県境に住んでいれば、県をまたぐことは、普通の行為。
以前いた会社では、総務、人事や企画の関係者が、よくボードに座った。
組織のリーダーだから、素晴らしい言動をいつもしているとばかりは言えず、呆れるような言動も耳にした。
具体例は、まだ明らかにはしないが、リーダーの差別的言動は、一種の職業病、組織の病理ではと思っている。使命感やら自意識が不健全に増殖し、権力と責務とを取り違え、周りは、いわゆる「茶坊主」ばかりを据えてしまう。
この「茶坊主」は、なかなか賢く、いわゆる単なるイエスマンではない。時には、敢えて反対意見もいう。但し、いろいろ仕込んだ上でのこと。
直接関係ない人に仕事させて、手柄が自分にあったと、社外人に言わせることもある。競争相手を蹴落とすのも、部外者や社外を使う。
権力者は、猜疑心が強くなり、社内の声よりも社外の声に左右される。
電力会社は、何かといえば、メーカーは、どういっているかという。社員の声に耳を傾けなければ、社員はいらない、といっているようなもの。
尊敬する先輩は、メーカーの主張と戦って、会社を追われた。
私も、早々に追い出された。
おべんちゃらや、社交辞令は、絶対に嫌だ。早くに不当に死んだ兄妹に会わせる顔がない。
何故、ごますりや、要領がいい者ばかりを重宝がるのだろう。人を人事権で金縛りにするのだろう。
権力は、人事権。魔物のような力。これを味わうと虜になり、本当に挑戦すべきことが見えなくなる。
福島の事故の要因には、このような組織のなかの魔物があると思う。
本当に戦うべき相手が見えなくなるから、差別的発言もしてしまう。誰かの、何かの、せいにする。

不思議な成人式挙行

緊急事態宣言を出す一方で、成人式は自治体任せ。一体、この国はどうなっているのか?!
税金で感染リスクをわざわざ上げながら、飲食店を悪者にしている。典型的なマッチポンプ
マスコミも、得意なエモーショナルな調子で成人式を持ち上げるだけで、そのリスクを分析しない。
このような状況で、税金をセレモニーに使うことは、人殺しを税金でやるようなもの。呆れるばかりだ。
どうしても、やりたいなら、抗原検査やPCR検査を2週間ぐらい無料でやって陰性になった成人に限るなどの対応を計画して、納税者の理解を得るなどが必要。多分、賛同は得られないだろうが。
成人式、定年退職式には、行っていない。もともと、権威主義的なことは嫌いで、欠席は難しい入学式や卒業式、入社式にしても、それらの記憶は、ほとんどない。
挨拶回りや告別式なども、できれば行きたくない。
挨拶回りは、全くナンセンス。される方も、本音は、迷惑のはず。挨拶回りの道すがら、訪問先と出くわし、路上で挨拶する光景は、漫才のネタにもできるはず。
コロナの数少ないメリットの一つは、このような儀礼的、慣習的催しを遠慮なく断れることだ。

コロナと差別

相変わらず、コロナに係わる不当な差別や偏見が後を絶たないようだ。
所詮、人間だから、世界中で見られる現象だろう。
ここで言いたいのは、それらに対する、例えばマスコミの主張が、他者への思いやりや自分も罹るかも知れないという想像力等を挙げるにとどまっていることだ。
正体が分からないものは、怖い。原子力放射線と同じ。
原子力の村人は、「正しく怖がろう」と訴えていたが、何が「正しい」かは、底無し沼のように、とりとめがなくなる。
コロナは、新しい脅威だが、知見も増えている。責任ある関係者は、「ステイ ホーム」などとエモーショナルに訴えるだけでなく、科学的、合理的な知見や推測を、しっかり広めて欲しい。
だいたい、PCRで感染していないからといって、ウイルスを全く保有していない人は、もう世界中にいないはず。いるとすれば、仙人のような生活をしていると思う。
放射線と同じで、ウイルスは、誰でも保有していると考えるべき。ただ、その量が多いか少ないか、個人の免疫力の違いなどが、発症するかどうかを左右すると考えたほうが自然だ。
こう考えれば、他人の感染を不当に非難する根拠は失われる。
なぜ、専門家は、PCR検査の限界(所詮、加速試験のようなもので、検査時点での絶対値を示していない、など)を含む科学的知見を、しっかり言わないのだろうか?
感染経路不明で、自身も「心当たりが全くない」という感染者の声も伝わる。
しかし、そんなはずはない。感染リスクが高まる行動例の知見を充実しなければならない。
一向に科学的疫学調査をしようとしないで、濃厚接触者中心の検査にばかり、税金を使うのは何故だろうか。
0.1%未満の感染者の集団に対して100人の抗体検査を税金でやって、感染ゼロとアピールする意味は何なんだろう?
怪しいことが続く。
誰でもウイルスを保有しているという前提で、コロナと戦わない限り、日本は、このままでは、医療崩壊が起きる。
医療崩壊を望む勢力がいるのだろうか。
原子力と同じような間違いが、コロナ対策でも起きている。
そうして、人びとが疲弊し、無駄に金が使われ、将来に大きな負担がのしかかる。。

ゴーツーとCOCOA

感染が拡大し、犯人探しや責任の擦り付けなどが、また始まった。
一方、客観的な情報共有や検査、誰でも実行できる対応策の普及などは、期待通りには、進まない。
何故、旅をすることや飲食が、一律にダメととられかねない風潮が、沸き上がるのだろう。
まるで、マッチポンプのようだ。
例えば、ゴーツーを利用するには、COCOAの利用が不可欠などの改善ができるはず。さらには、PCR検査で陰性を確認すれば、割引率をアップすることも一案。
話は変わるが、マイナンバーカードも、ポイントをつけたのに、まだ普及が進まない。
根本的な普及策を考えないからだ。

人事権

学術会議の会員任命問題が、今なお騒がしい。
政党の支持率やマスコミの視聴率やら、動機が不純くさい。
だいたい、世の中の人事に透明性があるのだろうか?
あるなら、自ら証明しろといいたい。
学問の世界に少し身を置いた経験からすると、大学なども人事は、良く分からない。
少なくとも、任命されなかった人達が、何故だ❗というのは、みっともない気がする。
自らの胸に手を当て、自らが今まで関与してきた人事の合理性を検証することが必要だろう。
学術会議は今まで、原子力に対しても、「後だしじゃんけん」のような提言をしている。
どうせなら、50年前に提言してもらいたい。
今までの会員推薦の基準やら、その相当性を説明する責任は、まず、この組織自体に、あると思う。
決して、先に総理大臣に求めることではないだろう。
このような風潮がはびこると、会社の昇進、国の褒章など、あちこちで騒動が起きるかも!?

駅のトイレに石鹸がない

コロナとの共存が、少しずつ進んでいる。いつまでも巣籠もり状態では、なんのために生きているのか分からなくなる。
原子力も何かあると、「絶対安全といえるのか」と問い詰められたり、「神話が崩壊した」などと揶揄されてきた。
絶対感染したくないから、生きることを止めればいい。健康のためには、死になさい。
など、ブラックジョークさながらの気配やら圧力も、未だに消えない。
大学は、授業料を貰う資格はあるのだろうか。

オンライン授業だけを、まだ続けている。
電車の駅のトイレに、石鹸がない。
医療品の洋服の値札が、外から見えない。
飲食店のテーブルにアルコール除菌液が
ない。
トイレなど汚染しやすいドアが、手を触れないと、開けにくい。
などなど、直ぐにでも改善できることが、たくさん残っている。
総点検して、できるところから改善して欲しい。
コロナ時代の新たなビジネスや文化の創成やイノベーションが必要だ。

社会的距離と物理的距離の違い

「社会的距離」という言葉が、すっきり腹に落ちない。
単に、お互いある程度の距離を保とう、ぐらいの意味であれば、「物理的距離」ですむはず。
ちゃんとした理由があるのだろうが、普及する側が
明らかにはしない。無責任にとどまらず、弊害も出るはず。
例えば、コロナと、かしこく付き合うためには、「物理的距離」を確保しつつ、「社会的距離」を近くする工夫がいるはず。
全く持って、折角のメッセージが、台無しになる。

「いじめ」という言葉も、犯罪との境界をわざとあいまいにする「ことなかれ」主義が一因と思う。

原子力村でも「モックス」と呼ぶMOX燃料の利用が、なかなか進まなかったが、普通の使用済燃料と対して違わないのに、訳のわからない略語をもったいぶって付けたせいかも。
言葉を大事にしない組織は、永続きしないだろう

専門家はうそつきなのか(COVID19その5)

何かあるとマスコミには、その分野の専門家や評論家が登場する。なかには、そんな分野があるのかと不思議に思うこともある。
2011年の福島で起きた原子力災害でも、あまたの有識者が現れたが、どうみても炉心損傷が起きているはずの段階でも、それをはっきり指摘した人は、いなかった気がする。
今回も、WHOがいい例。「人から人への感染は確認されてない」「エアロゾル感染はない」「パンデミックではない」「マスクは効果なし」など、今から思えば、まるでフェイクニュースのオンパレード。
8割おじさんと揶揄されている先生もいる。個人的には、評価する点もあるが、そもそも、前提条件やら境界条件やらで、予測に桁違いの幅が出るのに、その条件や手法を明らかにしない姿勢は良心的とはいえない。
毎日、何人陽性者が出たと報道されるが、検査数などの前提条件が、なかなか示されない。
本当のことを伝えることは、難しい。みな、なにがしかの集団、組織、権威者などの影響を受けている。
結果的に「うそ」をいってしまう、「本当のこと」をいえないこともある。
それには「圧力」「恫喝」などの外的要因だけでなく、「忖度」「エゴ」「自尊心」「功名心」などの内的要因がある。なによりも、失職や裏切り者にはなりたくない。考えると、いろいろと浮かぶ。
でも、今回のような災害や災難では、その罪は小さくない。
情報を受ける側は、鵜呑みにせずに、発信者もいろいろな都合を抱えていることを想像して、上手く活かすことが、肝心。
しかしながら「コミュニケーションリテラシー」を磨くことは至難の技だ。

新型コロナウイルスと原子力の共通性

今の生活は、原子力発電所のなかの放射線管理区域で日常を過ごす気分だ。違いは、飲食ができることと、汚染していないかどうかを確認できないこと。

だから、原子力よりも始末が悪い。世間は放射線を怖がるが、放射線は簡単に測定できる。
どちらも目には見えないが、ウイルスは、すぐに検出できない。
食べたり、飲んだりするから、余計に危険。放射線は、原子力がなくても自然界に存在するが、新型コロナウイルスは、恐らく最近現れたもの。

放射線は、管理の都合上、ゼロが良くて、多いほど危ない、村人が言う「LNT」仮説というのを採用しているが、村人の多くは、それを、信じてはいない。私も、そんな馬鹿な話があるかと思っている。機会があれば、その理由を深堀したいと思っている。

しかしコロナは、LNT仮説で管理した方が、良いだろう。あるいは、もっと始末が悪い、あるレベルになると、人によっては、急に悪さをする代物と考えたほうがいいかも知れない。

似ているのは、防御の基本。放射線は、距離、時間、遮蔽だ。コロナも、社会的距離、物理的距離を取り、接触する時間を短くし、マスク、ゴーグル、防護衣などで、シールドする。

原子力発電所で備蓄している防護衣などを無償提供するとの報道を耳にしたが、タイミングが遅い。他にも貢献できることは、いろいろあると思うが、いつものように後ろ向き。
コロナに関わる、いろんな組織の多くも後ろ向きであり、前向きでちゃんとしたことをいう良心的な人を異端児として排除しているようだ。原子力村と良く似てる。

オリンピックやある国のVIPの来日にとらわれたのか、入国規制が遅くなり、蔓延させた。
医療崩壊につながるといって、いい加減な検査基準をもうけ、人手をかけただけの積極的疫学調査だけにこだわり、市中感染への対処を怠り、却って院内感染などにつながってしまった。
積極的疫学調査にこだわっていたのに、今ごろになって、検査をもっと増やそうという始末。
現場が疲弊しているというだけで、その手当てが遅くなる一方で、いろいろな人達が職を失ったり、街の医院の多くが閑古鳥状態。
積極的疫学調査中心のデータで、倍加時間や再生産数などを今頃持ち出すのは、まやかしに近い。

2011年に起こした福島第一原子力発電所の過酷事故を所外から管理したり支援したりした村人の多くも、ちゃんとした、世間に胸をはれる行動をとったといえるだろうか。
金と時間と死者まで出して異常なほど働いたのに、いまだに9基しか動いていない。
折角動いたのに、つまらない規制や判決で発電を止めさせられている。
おまけに使える原子炉の半分近くをスクラップにしようとしている。

些細なトラブルで、原子力船や増殖炉の実用化を、断念した。膨大な国費や人智を集めたあげくに。

しかも、もともと村人だった人が、規制を盾に、このような非合理な決断を下したり、関与したりした。

コロナウイルスへの科学的合理性などに欠けた対応で、社会と人の心や生活を、ぼろぼろにしてしまいそうな予感がする。

まるで原子力村と同じように。。。